たー坊の日記

読むこと、聞くこと、書くこと、世界の探求

なりきり自慢

僕は読書をすると行動に影響が出るらしい。

先日は、村上春樹の『1Q84』のBOOK3を読んでいたら、牛河という私立探偵が妙に気に入りました。

「俺にはとりたてて才能はないけど、粘り強さだけは自信がある。それだけで飯を食ってきた」

このようにうそぶく牛河に影響されて、僕も『1Q84』BOOK3を読書している間は、一時的に、辛抱強く、我慢強くなりました。

粘り強さや我慢強さといった、どちらかというと地味な特性も、なりきってしまうと、すばらしい美徳のように感じられたものです。

読み終わって数日がたち、牛河の影が薄くなると、また元の自分に戻ってしまったわけですが。

 

カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』を読んだときは、主人公に引きつけられました。

基本的に、主体性のない、意志の乏しい、気力や活力のない人物で、本を読んでいるあいだ、僕もそんな人間になっていました。

こちらは元々、僕の性格に近いためか、違和感は少なかったのですが、牛河時代の粘りはどこに行ったんだろうと思いました。

「辛抱強く」という素晴らしい美徳に感じられたマジックワードも、別の小説を読み始めて、世界の相貌が変わると、色褪せてしまうのでした。

 

次は何を読もうかなと思っているところなのですが、恩田陸の『蜜蜂と遠雷』が面白そうなのでそれにしようかと思っています。

青春小説らしいので、今度は気持ちが若返るのではないかな、と思っています。

 

 

にほんブログ村 本ブログへ
にほんブログ村

私は客観である。

言葉を字面で真に受けてしまう人ほど、自分は主観であって客観ではないと思ったことがないでしょうか。

このことは一面では正しいのですが、別の面では間違っています。

なぜなら、鼻からあなたは客観だからです。

「私はこう思う」というのは、主観であると同時に客観でもあるのです。

どういうことか。

主観のポジションをいったん他者に譲るのです。

僕はこう思うけど、あの人はどう思っているんだろう?

この時、あの人を主観のポジションにおけば、僕は客観になります。

主観が謎というのは、奇妙な感じがしますが、その効果として、自分を客観のポジションに置くことができます。

「私はこう思う」のは、いつでも客観なのです。

この事実は、客観といえど、偏見や臆見にみちた世界観のひとつなのだということを知らしめます。

なにしろ、構成員がこれほどまでに出鱈目なのだから。