貯水槽の上の美少女 ほしよりこ『逢沢りく』
まず、このマンガの特徴は、上下巻以外、ひとつも区切りがないことです。
第何話というような切れ目が一切ありません。
だからどこで一息つくとか、読者は自分で判断することになります。
なんでもないことに思われそうですが、この作品のテーマに「技巧」があるようなので、実は計算されたことではないかと思います。
絵もそうですが、漠然としているようで、細かく計算された作品だと思うのです。
主人公の逢沢りくは東京の裕福な中学生で、悲しい場面で自由に涙を流すことはできるけど、悲しみの意味はまだわからないちょっと変わった美少女です。
不倫をする父親とちょっとめんどくさい性格の母親と暮らしていましたが、母親が仕事に復帰するために勉強するからという理由にもならない理由で、関西の親戚にひとり預けられて転校することになります。
関西で暮らすようになった逢沢りくでしたが、病を抱える親戚の少年、時坊こと時男になつかれて、やがて別れを迎えるまでのお話です。
物語の終盤、逢沢りくは「大人ってとんでもないウソつきなんだから、信じたらひどい目にあうんだって」と時男に向かって電話で言います。
シリアスなマンガではなく、コメディーのため、ちょっと笑えるセリフでもありますが、作品を読み解く鍵になると思います。
なぜなら「ウソ」は「技巧」だからです。
不倫をしている父親が、片手をズボンのポケットの中に入れて洋菓子屋に入るコマがあるのですが、これが僕にはキザにみえるのですね。
こういう細かい芸を技巧といわずになんといえばいいのか。
大ざっぱにいって、ファッションだって技巧です。
でも、子供の目から見ると、技巧とウソは紙一重なところがあります。
象徴的なのが、逢沢りくの制服です。
一時的に関西の中学校に転校しても、りくは東京の学校の制服のまま通い続けます。
制服のことで因縁をつけられたり、りくの制服は何かと作者にネタにされます。
本人は一時的だと思っているから何ともないのかもしれませんが、周囲から見ると奇異に見えるのですね。
そういう意味では、逢沢りくは正直というか、大人びた技巧をまだ身につけていません。
もうひとつ、言葉の問題があります。
場面が関西に移ってからは、関西弁がふんだんに出てきます。
見た目の絵面からいっても、吹き出しの中に、関西弁が読みにくいぐらいぎっしり詰め込まれるようになります。
しかし、関西嫌いの母親に育てられた逢沢りくは、関西弁を使おうとしません。
方言を使えないと、なかなかその土地になじめないものです。
「私は絶対になじまない」と心に誓う逢沢りくは、その点でもまだ技巧を身につけていないのです。
おかしなセリフですけどね。
「だめなのよ…… 大人は絶対にまちがっちゃ…… 絶対に……」というセリフがありますが、おそらく、逢沢りくの心だと思います。
これが、先ほどの「大人はウソつき」と葛藤するのです。
父親と母親のウソは、逢沢りくにとって冷たいウソでした。
関西の親戚、学校の生徒のウソは、笑いのボケとツッコミが基本形でした。
そもそものところ、肉親と親戚や友達ということで距離に違いがあるといえばあるわけですが。
病気を抱えた時男が手術に向かった日、逢沢りくはこのエントリーのタイトルのように、学校の屋上の貯水槽の上にふらっと向かいます。
そのシーンはやや唐突とも思える感じで出てきます。
貯水槽にのぼり、何のセリフもなく、風に吹かれながら遠くを見つめます。
どこを見つめていたかは読者の想像力に委ねられます。
やがて逢沢りくの顔が、どことなく寂しげな少女から、目鼻立ちのはっきりした大人っぽいものに変わります。
そして時男との別れがやってきます。
時男は逢沢りくの鏡のような存在でもあったわけで、時男との別れは自分の子供時代との別れです。
同時に、時男(Tokyo)への思慕でもあるかもしれません。
それは一度、親元を離れて物語という旅をしたことから、かつての子供時代にまっすぐ戻るのではなく、大人の世界に新たに旅立とうとしているのかもしれません。
はじめに述べたように、この物語には第何話というような区切りがありませんでした。
しかし逢沢りくが大人への階段を上ったことで、お話は完結したと思います。
その階段は貯水槽に掛かった梯子という不安定な代物なのですが。
ただ、その一方で過剰な技巧は不自然さの現れだといえます。
鉛筆でラフに書いたような絵のタッチは、技巧的な不自然さへの抵抗とも読めます。
逢沢りくは東京で過剰な技巧の世界に傷ついていました。
貯水槽の上で空を見上げるのも、逢沢りくには何の意味もないことなのかもしれません。
そもそも親戚の子との別れがそんなに寂しいかといえば、いや、そうかなというのが正直な感想で、上記のような辻褄を合わせた解釈がおかしいかもしれない。
物語のある種のパターンの反復だといえば、それまで。
一概にはいえないダブルバインドを描いた作品だと思います。
僕は終盤、物語の力に飲み込まれて一気に読んでしまいましたが。
どっちにしても作者の力がたいへんなものであることを示しているのだろうと思います。