たー坊の日記

読むこと、聞くこと、書くこと、世界の探求

なんでもベスト5 哲学書編

第5位 純粋理性批判 イマヌエル・カント

 

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

純粋理性批判〈1〉 (光文社古典新訳文庫)

 

 

今なお、色褪せない哲学の古典の中の古典。

はっきり言ってキャノンです。

岩波文庫とかだと、序文がいくつもあってなかなか本文にたどり着けません。

学校を卒業してから知ったことですが、哲学の中にも普遍を扱う本流と、時代や社会も視野に入れる傍流があります。

純粋理性批判』は本流です。

だからキャノンたりうるんですね。

議論の組み立て方とかも、哲学の世界では模範的とされています。

簡単には真似できませんが。

一般的には誰も読んでないだろうと思われがちですが、平野啓一郎さんの『本の読み方』なんかを読んでいると、カントの分析的判断と総合的判断を使っているなぁという感じがします。

哲学書はこっそり読んでおくものなのかもしれません。

純粋理性批判』にはいろいろな論点があるし、つまみ食いでも案外役に立つかもしれませんよ。

 

 第4位 監獄の誕生 ミシェル・フーコー

 

監獄の誕生―監視と処罰

監獄の誕生―監視と処罰

 

 

先ほどの本流と傍流の区別でいうとフーコーは完全に傍流ですが、現代哲学では構造主義四天王とかいわれて、強い影響力をもちます。

この区別について補足しておくと、哲学は時代や場所に関係ない普遍を扱うものだとされるのですが、やはり時代背景や地域性を無視できないだろうという批判がいつでもあります。

フーコーぐらいの20世紀後半のフランスの思想家になると、西洋哲学が普遍を語ることにためらわざるを得ないのです。

西洋哲学は自分がど真ん中にあるという前提で話が進みがちですが、ほんとにそうだろうかと。

『監獄の誕生』もそういう問題意識から書かれたはずで、自分というのは環境によって構成されているということを、囚人を素材にして論じていると思います。

つまり、私はなぜ囚人なのかということを知ろうとしたら、監獄を含む社会システムの現出と由来の構成分析をしなければならないだろうということだと思います。

非常に難解だし、囚人でもないので、どうしてこんな本を読んでいるのだろうという疑問にみまわれますが、そういう背景を知っておけば少しは読みやすくなるかもしれません。

役には立ちません。たぶん。

 

第3位 ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 エドムント・フッサール

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

 

 

構成分析といえば、現象学の始祖フッサールです。

「事象そのものへ」とか、「判断停止」というのは、全部フッサール発なのですが、なぜそんなことをするかといえば、構成分析をするためだったのです。

元数学者のフッサールからすると、対象がはっきりしないのが気持ち悪かったのかもしれません。

構成分析したいけど、一体なにについて?

そのようなフッサールの気分は生涯つきまといます。

このあたりはこの哲学者の真骨頂で、出来合いの哲学問題を解くことは別に哲学をしていることにならないといわれる所以でもあります。

最晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でも、そもそもなにを扱ったらいいのだろうということで、現象学の総括的な第1部のあとの第2部で、生活世界という問題概念を新たに提唱します。

生涯を費やして研究して、この生活というものをフッサールは掴みきれなかったようなのです。

素敵ですよね。

 

第2位 方法序説 ルネ・デカルト

 

方法序説 (岩波文庫)

方法序説 (岩波文庫)

 

 

今まで取り上げた哲学書は、はっきりと難解です。

しかもあんまり役にも立たない。

方法序説』は違います。

読みやすいし、役にも立ちます。

その方法とは?

 

1.問題を設定する。

2.問題となっている事柄について、細かく分けて分析する。

3.分析したものを、秩序を立てて総合的に組み立てる。

4.最後に、漏れなどがないか検討する。

 

自分なりにアレンジしてありますが、基本的にはこういうことだと思います。

ほとんど鉄板のビジネス書といっても過言ではありません。

デカルトは20歳ごろには学校の本を全部読んでしまって、ここには、なに一つ確かなことはないらしいと知って、世の中に飛び込んでいきました。

そんなデカルト流の処世術も書いてあります。

 

1.国の法律と慣習に従う。

2.一度決めたことは断固としてやる。

3.運命を変えようとするのではなく、自分を変えようとつとめる。

 

僕が好きなのは、森で迷ったときの比喩です。

深い森の中で迷ったとしても、同じ一方向に歩み続ければ、どこかにたどり着くことはできるはずだ。

たとえそれが自分の望んだような場所でなくとも。

希代の賢人が、当時のフランスの大衆のために自らのエッセンスを、ラテン語でなくフランス語でまとめたのが『方法序説』です。

読まなければ損かもしれません。

 

第1位 国家 プラトン

  

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 

 

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

 

デカルトがそうですが、学問をする人はなにより誠実であることが必須です。

明証性の本質はそこにあるのだろうと思います。

そしてまず自分自身に対して誠実であることが大切なのです。

たとえエゴイストと呼ばれたとしても。

しかしそうは言ってもひとりでは生きられない。

そんなことを示しているのがプラトンの対話篇ではないかと思います。

 

プラトニックラブの語源となったプラトンは、ラブではなくエロスの人です。

ギリシャ語でエロスは惹かれるという意味を表しますが、プラトンのエロスは、初めから屈折しています。

師匠にあたるソクラテス書物の形では一言も残しませんでした。

弟子のプラトンはそれを惜しんだのか、ソクラテスを主人公にした対話篇を、ある意味無断で大量に残します。

それなのにプラトン自身は対話篇にほとんど登場しません。

 

ここにすでに本質と仮象という区別の芽が現れているんじゃないかと思います。

ちなみに、現象学も、Schein(仮象)がerscheinen(現れる)することを扱おうとする学です。

 

イデアの語源でもあるプラトンイデア論は、「洞窟の比喩」というかたちで提示されます。

ひとは洞窟の中にいて、外から入ってくる太陽の光によって、影絵として事象を見ているというのです。

洞窟の外に出て太陽を見ようとしても、まぶしくて見えない。

イデアとは本質のことですが、イデアは太陽のようなもので、直接見ることが出来ません。

しかし哲学する者は、影絵をみて、本質、すなわち太陽があることを間接的に知ることができる。

たしか、こんな筋でした。

 

これがソクラテスプラトンの関係の裏書みたいだと思うのです。

僕は、太陽はソクラテスではなくプラトン自身のことだろうと思います。

自分がいなかったら世界は存在しないはずというあの素朴な疑問は、中学生でも考えることですが、そのことはプラトンにとっても同じ。

古代ギリシャの「ヒポクラテスの誓い」はいまでも医学を志す人に生き続けているそうですが、プラトンは書くことで仮象としてソクラテスを蘇らせたのです。(ちなみに最初の著作は「ソクラテスの弁明」といいます。)

しかも筆が進んで、師匠が言ってないことまで創作してしまうというか、考え続けた。

書き続けることで、本質を間接的に知ろうとしていたとはいえないでしょうか。