体験的読者論

僕は30代になってから、村上春樹の小説を読み始めた。

もっと若い頃に読んだこともあったが、いまひとつピンとこなくて熱心な読者になることはなかった。

なんというか少し暇になったこともあって、ひとりの作家を追いかけるということを始めてみようと思ったのがきっかけだった。

小林秀雄によれば、ひとりの作家の小説や評論から手紙まで全部読むと、ひとりの人間が考えることの全体像をつかむことができ、自分の参照点になるとのことだった。

村上春樹は非常に多作だし、まだ生きている作家ということもあって、全部に目を通すことなどできないが、小説はほとんど読んだし、翻訳もけっこう読んだ。

 

それでわかったことは、自分がどういう風に興味や関心を広げていくかということだった。

人間の脳というのは、知識をバラバラに保存するのが苦手らしい。

当たり前だ。

村上春樹を追いかけることで、アメリカの小説まで手を広げた。

別に昔から平気で村上龍フィッツジェラルドを並べて読んでいたのだが。

いつしか村上春樹の文体で『グレート・ギャツビー』を読むのが、快楽になっていた。

ここがツボだと思う。

リズムが大事というが、それは癖になるからだろう。

単行本一冊なら、たいして意味はない。

 

僕が読んだものをうまくミックスさせたり加工できているかといえば、とてもそんなことはいえない。

たとえば『ねじまき鳥クロニクル』は『伊勢物語』を意識して書かれたらしいことを最近知ったが、読んでいるときには全然気がつかなかった。

また『風の歌を聴け』の書き出しが、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』に似ていることを発見したのも最近のことだ。

広がり方としては、縦横というよりは、上下の厚みのようなものだろう。

遅まきながら立体的な理解がはじまるのだ。

なにがしかのヒントになれば幸いだ。

 

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