たー坊の日記

読むこと、聞くこと、書くこと、世界の探求

つなぐこと 角田光代『八日目の蟬』

読んでいて、ふと「制度から疎外されるとこれほどまで生きづらいものか」と思った。

『八日目の蝉』の前半は、不倫相手の赤ん坊をさらった野々宮希和子の逃亡生活が描かれている。

そのように書くと陰鬱な話を予想されるかもしれないが、どこにでもいそうな母親と幼児の微笑ましい生活のようでもある。

素性を隠して警察の目から逃れなければならないことを除けば。

 

ひとりの子どもを養って育てるために、今の日本にどれほど制度があるだろう。

風邪を引いたら病院に連れて行けばいいし、大きくなれば学校に入れればいい。

だが作者はその裏を描く。

希和子を逃亡させつつ、徐々に希和子から薫(本名は恵理菜)以外のものを奪っていく。

友人と別れ、お金をなくし、次第に居場所を失っていくというように。

 

救いはないのだろうか。

希和子は宗教的な施設にも入るが、警察の手が届きそうになるとそこを出なければならなかった。

現代の日本で罪を犯した人間は、そのようなところでは救われないのだ。

元に戻すことはできない。

ならば、もう一度知人をつくって、働き、気持ちよく住める場所を見つけること。

なんでもないごく普通のことをするしかないのだろう。

希和子は逮捕されるまで、小豆島で島の人たちに溶け込み、仕事をしながら、薫とともに過ごす。

いわゆる自立と似ている。

 

よくいわれるように、人はひとりで大きくなるわけではない。

身につけたものをひとつひとつ子細に点検してみれば、ほとんど誰かに与えられたものから構成されている。

 

ことばだってそうだが、与えられたものが嬉しいものばかりということもない。

『八日目の蟬』の後半は、大学生になった恵理菜の視点から描かれるが、恵理菜は事件の記録に対して懐疑的である。

当事者からしてみれば、報道には面白おかしく書かれたとしか思えないものもあるからだ。

制度の負の側面であるが、記録自体に罪はない。

 

たまさか選ばれてしまったことで、いろんなことが裏目に出ることがある。

恵理菜の立場にたてば、「なんで私だったの」と思わずにはいられないだろう。

そのことに心を閉ざして、過去を断ち切ろうとするかもしれない。

だがそれでは救われない。

記録は断ち切れるものではないし、断ち切れたとしても記憶が残り続けるからだ。

 

恵理菜は希和子と同じように、不倫相手の子どもを身ごもり、子どもを産んで育てていくことを決意する。

一度は堕ろすつもりだったのに産むことを決意したのは、かつて希和子が見せてくれた小豆島の瀬戸内のような海や空を、自分の子にも見せてやりたいと願ったからだった。

恵理菜は自らの物語を立ち上げ、ようやく小説自体は閉じることになるが、それは希和子と同じ自立の型をしているのがおわかりいただけただろうか。

自立とはつなぐことでもあるのだ。

 

 

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)