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たー坊の日記

読むこと、聞くこと、書くこと、世界の探求

続・自己分析 自分の強み診断の結果と公平性について

先日の振り返りに続いて、自己分析をしてみた。マーカス・バッキンガム&ドナルド・O・クリフトン『さあ、才能に目覚めよう』(日本経済新聞出版社)という本のおまけでついてくる「ストレングス・ファインダー」というものを試してみた。177個の質問に答えると自分の強みを5つ順番に教えてくれるというものだ。

 

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

さあ、才能(じぶん)に目覚めよう―あなたの5つの強みを見出し、活かす

 

 

僕の診断結果は「公平性、適応性、着想、共感性、内省」だった。言われてみれば確かに普段からよく気にしている項目だと思った。

 

ただその中で筆頭にあげられている「公平性」がどうにも引っかかった。自分ではそんなに公平を意識しているつもりはなかったからだ。むしろ現実は不公平ですらあると思っている。なんかいつも不満タラタラな人なのかなぁと思われるかもしれないが、そんなことはない。

 

僕の考える「公平」のイメージは、いい意味でバランスがとれている、悪い意味で優柔不断というものだ。「あなたは、公平な人です」と言われて、自分を素材にして考えたことだが、とくに優柔不断というのが、何かにつけて僕について回ってきたような気がする。決められない、変化を嫌う、保守的・・・。それから何に対しても等しく距離を取ろうとする。文章でも写真でも、近づいてズームアップにしたり、遠くから俯瞰でみたりするから面白いのであって、ミドルショットばかりでは退屈するものだ。

 

そんなわけで「公平」と言われてもあまりうれしくないが、何が原因でそのような志向を身につけたのか。二つほど考えた。一つ目は、周りの環境が公平で、その影響を強く受けたというもの。二つ目は、傷つきやすさである。

 

僕は日本という国はきわめて公平な国だと思っている。それはもう口うるさいぐらい。そのおかげで例えば道路はどこに行ってもついているし、新幹線は北海道から九州まで走っているしで、インフラが整っているのではないかと思う。その点、自然界は公平ではない。人間自体が一つとして同じ個体がないように。そういう意味で、公平であるとはカルチュラル(文化的)であり、社会的には本来望ましいこととしてあったはずで、その価値観を内面化したのではないかと思う。

 

もう一つの傷つきやすさは、個人的な事情に由来する。傷つきやすいという性格のおかげで、何事からも安全な距離をとるようになったし、その延長線上に公平があったのかもしれない。あるいは厳しい摩擦を経て、少しは大人になったということもあるだろう。

 

だがしかし、本来望ましいものである「カルチュラル」と、傷つきやすさという「ヴァルネラビリティ」は、同じこの世界でコインの裏表のように存在している。カルチュラルであることは、思いのほか人を傷つけるのだ。

 

例えば「ものを知らない」というとき、遊び場で友だちと居合わせることが出来なかった時の寂しさような疎外感を感じることがある。呼んでくれたらよかったのにと思っても、後の祭り。自分からはどうすることも出来ない。知というのは、そのようにして縁に左右されることがある。

 

また往々にして、カルチュラルな人はカルチュラルであることを無条件に善きこととして認める。カルチュラルであることは、秩序や体系を内部にはらむ。ヘーゲルも言っていることだ。たぶん。その秩序から遠い圏外にいることは、個人の内面を苛むだろう。

 

縁にしたって、秩序にしたって、平等にやってくるものではないし、自分の力ではどうしようもないところがある。野蛮とは特定のカルチュラル体系の外部のことだが、公平に見て、例えば南蛮漬けのどこが野蛮だろう。江戸時代の日本人という特殊なフィルターを通してみれば、南ヨーロッパ人の文化が野蛮というカテゴリーに入れられるというだけである。

 

他人とは自分の圏内にない人のことである。危険であり、粗野であり、野蛮ですらありうる。そのような他人との接触、摩擦を繰り返しながら、安全な距離をとろうとすること。公平とは本来そのような外交を司るダイナミクスであり、大人な特性なのだと思う。変化を嫌い、自分に固執したままでは、バランスはとれていても小さくまとまることしか出来ないに違いない。自戒を込めて。