アルコール依存症の私的な定義と回復へのひとつの道筋(序説)
当ブログの断酒日記というカテゴリーには、酒にまつわる話と酒をやめるための理論や方法を集めている。
ぼくは精神病院に通院していて、主治医の先生からはずっと酒は控えるように言われてきた。
ただ、「あなたはアルコール依存症です」と言われたわけではない。
それは、先生に酒のことを聞かれても、飲んだ酒量を少なめにごまかしていたせいかもしれない。
正直に毎日飲んでいるとは言っていたけれど。
しかし、今年の5月に旅先の出雲で酒を飲みすぎて、低カリウム血症で動けなくなって入院したとき、通院する精神病院にもばっちり情報が送られたみたいだ。
退院して帰ってから初めて診察に向かうと、先生から「もう一滴も飲まないように」と言われた。
そうはっきり言われたわけではないけれど、事実上、アルコール依存症ということだ。
少なくともぼくはそう受け取った。
人が一般的にどのようにアルコール依存症となるのかよく知らない。
いや、哲学的な話ではない。
病院に行っても、患者が「飲んでいません」と嘘をついてしまえば、医師もアルコール依存症という診断名はつけられないのではないか。
アルコール依存症を示唆する客観的なデータ(肝機能の数値とか)は存在するが、それも決定的なものではない。
患者が認めるまでは、アルコール依存症ではない。
この病が、否認の病といわれるのはそういうことじゃないか。
さて、ぼくは最近ようやく本気で自分のことをアルコール依存症だと認めて、断酒しようとしたり、この病のことを勉強し始めたばかりである。
なのでぼくが語ることは、いささか時期尚早であり不備があるかもしれないし、説得力に欠けるかもしれない。
しかし、自分の中である程度、整理できてきたこともあるので、思い切って公開してみようと思う。
ぼくのアルコール依存症の定義は、「酒を飲みたくないのに毎日のように大量に飲んでしまうこと」である。
以前、少しだけそのことは書いたのだけど、「ホントは飲みたくない」というのがポイントである。
ぼくは、以前はほんとに毎日飲んでいた。
そして、厄を終えていよいよ無気力で無力な自分を呪っていた。
というか体がだるくて動けなかった。
そのあげくの果てが、出雲での入院だった。
当ブログに断酒日記というカテゴリーをつくって、「断酒します。」というエントリーをアップしてから、2ヶ月弱たつ。
その間、一滴も飲まなかったということはなくて、一進一退というか、実は昨日も飲んでしまった。
なんというか、割とすぐに絶望してしまうのだ。
しかし、目に見えて飲酒の回数や量が減り、その代わりに健康が戻ってきた。
なぜ、365日毎日飲んでいたぼくが、酒から離れられるようになったのか。
その中心にある思想が、「自分の欲望に素直になる」ということなのである。
そして試しに4、5日、酒を断つと体が楽になり、ちょっとだけ勉強して、ものを知ることの楽しさが分かるようになった。
その楽しさの感覚が支えになる。
恥ずかしながら、今ぼくは仕事をしていない。
じゃあ、お前はどうやって食ってるんだと言われるかもしれない。
しかも、なんだか遊んで暮らしてるみたいだ。
ふざけた野郎だ、と思われるかもしれない。
それはそうなのだが、まあ、働きたくても働けない人もいるのだと思って、ここから先は肩の力を抜いて気楽に読んでほしい。
ごく個人的な処方箋だ。
「自分の欲望に素直になる」といっても、ぼくには専門であったり、コアになるようなことがない。
音楽にはホントに救われたけど、しょせんにわかである。
本だって、本の虫といえるほど読むわけではない。
マンガもそうだし、映画にいたっては最後に見たのが何だったかすら思い出せない(たしか「となりのトトロ」だったと思う)。
スマホはよく使う。
SNSとかニュースサイトとかブログとかいろいろ。
全部、家の中でできることばかりだ(笑)
酒を控えて健康になってから、より積極的にこれらのことを行うようになった。
「欲望に素直になる」と言ったって、腹の中から自然に湧いて出てくるわけではない。
それでも、アルコール依存症という病のことも含めて、「知ろうとすること」は大事だし、楽しいことなのだ。
本は図書館にあるし、スマホやKindleがあれば青空文庫から無料でダウンロードできる。
音楽は、spotifyやAmazonミュージックみたいなストリーミング配信だと、月に1,000円払うだけで、ほとんど無限に聴くことが出来る。
なにが言いたいかというと、お金をかけなくても、楽しむことはできるということだ。
今この文章は、iMacで書いている。
iMacは高かったが、精神的な満足度も高かった。
これはいい買い物だったと思う。
それはそうなのだが、ぼくは今、漠然ともっと人づきあいができたらなあと思っている。
そして出来ることなら、いつか仕事をしたいなあと思っている。