哲学よもやま話・・「わたし」編
自我とは何か。
もう少し砕けた言い方をすれば、「わたし」って何?
西洋近現代哲学がテーマにしたのは、第一にこの問題だったのではないかと思います。
はじめにデカルトの「我思う故に我あり」があって、カントの理性批判等が続き、ヘーゲルの絶対精神で完成をみたとか哲学史でいわれる思弁哲学は、しかし、「我ってなに?」という日本の哲学科の一学生の一言でつまずいたりします。
そういえば、我ってなんだろうねぇと(笑)
「わたし」といわれても、具体性が乏しいんですよね。
例えば、「わたし」は考えることもあるけど、ずっと考えてるわけじゃないじゃないですか。
じゃあ、根拠文だし範囲が広い「思う」の方がよくないですか、というわけで、デカルトのテキストが読み直されたりします。
そもそも「わたし」が問題にされるようになったのは、近代市民社会の成立と関係があると思います。
自立した個人として生きることが求められるようになった社会というか。
西洋の歴史にはその必然の歴史のようなものがあったと思うんだけど、日本だと少し事情が違いますよね。
それが昔の知識人を悩ませたのかもしれない。
夏目漱石なんかそうだと思う。
『私の個人主義』という本が出てますけど、小説でも『それから』とかで高等遊民と呼ばれる人たちがでてきて、でも、あれって、ただ遊んでる人だよねというツッコミを受けたりします。
閑話休題。
しかしそうは言ったって日本だって西洋化の流れから逃れることはできなかったわけです。
もともとなかったかもしれないものを、それでも受け入れてどうにかする必要があった。
西洋哲学なんていらないっていう人もいるかもしれないけど、哲学という考える場所があったっていいんじゃないですか。
それを具体化したのが大学ですよね。
ま、大学じゃなくてもいいんだけど。
本題。
僕は、西洋近現代哲学は、抽象的な理屈からやがて感覚を重視した問題の立て方をするようになったと思っています。
証拠をあげる能力はないので、なんとなくです。
近代から現代に移ると、大哲学者が突然、具体的なものを取り込みだすんですよね。
道具とか、病気とか、労働とか、家とか。
もちろんカントの理性批判などを踏まえつつだと思いますし、実は古代のアリストテレスは『形而上学』ですでに具体的なものを取り上げていたのだけれど。
それはともかく、人間にはあらかじめなにかが自分に与えられ、「わたし」っていうのはそれを受ける場所なんじゃないか。
享受といいますか。
カントのひそみに倣って言えば、「わたし」は経験に先立って要請される枠組みであり場所というか。
それと同時に、「わたし」はなにかに与える存在でもあることは、自分の経験を振り返ってみれば明らかです。
いま二つの論点を出したけど、その根拠は感覚じゃないですか。
想像力を別にすれば、「わたし」は「わたし」の感覚のことしかわからない。
つまり、これがデカルトの「我思う。故に我あり」の内実ではないか。
与えられたこと以上は知り得ないという意味で、与えられたことは自分の限界を指し示していますが、同時に、与えられたことから与え返して生きるというのも、もうひとつの自分なんじゃないでしょうか。
それでは。