文学理論といふもの 間テクスト性の間で

ことばというものは、一対一で対応していません。

廣野由美子『批評理論入門』を読んだばかりなのですが、たとえば、この「批評理論入門」ということばが指示する事態は、一筋縄ではいきません。

 

まず、「批評理論入門」は僕の手元にある一冊の本を指示します。

その観点を広げていくと、アマゾンの倉庫にある在庫や、本屋に並んでいる「批評理論入門」も指示しているといえます。

なんだ、「批評理論入門」という本のことじゃないか、と思われるかもしれません。

しかしどこかの大学に「批評理論入門」という名の講座が開講されていないともかぎりません。

読む者によって、「批評理論入門」という音(文字?)の連なりは、一冊の本を指したり、架空の講座を指したりすることができるかと思います。

 

1)ことばの多義性と経済性

 

一般的に、ことばは一対一で対応することによってではなく、一対一で対応しないことによって、使いでが増します。

ひとつのことばで様々なことを指示できるからです。

このことをことばの多義性と経済性としておきます。

 

2)ことばと因果関係

 

もちろん、一対一で対応させなければ、生活に支障がでます。

たとえば「『批評理論入門』取って」という依頼の意味がわからなければ困るということです。

しかし、使いでが増すというのは、限られた数のことばで、いろいろなことやものを指示できるという原理的な意味においてでした。

この言語の経済効率ともいうべき一般原理をラディカルに進めると、たとえば何の関係もない人に「批評理論入門」とあだ名をつけることも可能です。

一人でやっているとおかしな奴ですが、これは換喩に近いと思います。

換喩とは、「〜のような」といわずに、「〜だ」と言いきってしまう比喩の方法です。

これはことばが一対一で対応しないことと、因果関係が存在しないことを示唆します。

ただ、ことばに対する帰責性という意味では、明らかに原因は名ざす者ですが、それはいささか次元を異にする問題になります。

 

3)本歌取り間テクスト性

 

さて、『批評理論入門』には、間テクスト性という項目があります。

わかりにくい訳語ですが、日本には古来から本歌取りの伝統があります。

間テクスト性とは、本歌取りみたいなもので、先行するテクストとの影響関係のことです。

 

『批評理論入門』では、ジュリア・クリステヴァが、文学理論に間テクスト性という概念を定着させたとあります。

クリステヴァの功績は、ことばの多義性と経済性という一般特性を、文学に適用して文学理論の一分野にしてしまったことにあるのかもしれません。

 

先行テクストとの影響関係を考慮することには若干の原理的な問題があります。

根拠は何?という問いかけへの脆さがそれです。

本歌取り間テクスト性は、根拠を指摘するのが困難です。

読んだり聞いた側からすると、似てるねで話が終わりかねないからです。

 

4)名ざす者の帰責性

 

一方で昔の本歌取りだと、歌を受けた側がスルーしてしまうと、にぶいではすまされないかもしれません。

生活にも関わってきそうな気がします。

ここで名ざす者の帰責性の問題が顔を出します。

ことばとものごとの間には因果関係はありませんが、ことばと名ざす者の間には因果関係が存在するのです。

言ったことには責任があるのです。

 

5)曖昧な間テクスト性

 

間テクスト性の問題は、責めをおうべき本人が不在の場合ではないでしょうか。

影響や対応関係はあるのかもしれない。

しかし、受け手だけではことばを最後までは詰めきれない。

この困難の原因はそもそもスタートにありました。

スタートの認識は、ことばは一対一で対応しないことだったのです。

多義的で経済効率的な対応関係があって、ことばの対応関係自体に因果関係は存在しない。

とするなら、曖昧なまま置くほかないのではないでしょうか。

 

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

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