背筋を伸ばしたくなるマンガ 高野文子『黄色い本』と『るきさん』

高野文子さんの『黄色い本』の表題作「黄色い本」を読みました。

何かで素敵な読書論になっているとの評を読んだからです。

若い人に混じって書店のマンガコーナーをうろうろ探していると、だんだん場違いなような気がして恥ずかしくなったのですが、「読書論だから」と自分に言い聞かせて探し出しました。

 

最近、いい読書ができてないなぁと思っていました。

あれこれ読みかけて最後まで読みきれない、どうにもお粗末な状態なのでした。

「黄色い本」の主人公、田家実地子は就職を控えた高校三年生で、『チボー家の人々』(全五巻)を読み耽ります。

本の登場人物が現実世界に現れて、対話をしたり、集会をしたり、お別れをしたりするぐらいにです。

「なんだ、文学少女の話か」と思いながら読んでいたのですが、読み返してみるとそうでもないかもしれない。

これは誰にでも起こりうる「一回限りの読書体験」なのではないか。

「一回限り」とは、一回しか読まないとか、人生で一回だけという量的な意味ではなく、時間の不可逆で替えが効かない強い経験の質とかそんな感じです。

 

気になるシーンはいくつもあるのですが、P.53は読書論という意味では目を引きます。

「ここは読んだかどうかわからなくて、3日ぐらいたってから、読んだって気づく」という趣旨のことを実地子が友達に話すと、「ひでえ読書だなあ」と返されます。

「黄色い本」の読者は、実地子が登場人物の幻を見るほどのめり込んでいるのを知っていますから、友達に背を向けて去って行く実地子の気持ちが痛いほどわかります。

 

読書は孤独を要求すると言われます。

高校三年生で就職を前にして、実地子は多分に内省的になるころかもしれません。

その実地子をまわりで見守るのが、家族であり、学校の友達であり、社会なのです。

 

高野文子さんといえば、『るきさん』が好きなのですが、僕はこの実地子をるきさんと重ねました。

るきさんの思春期は、こんなだったんじゃないかと。

るきさん経理の内職をして生計を立てている読書好きで、社会性と内向性を併せ持つキャラクターです。

僕なんかは、るきさんのような生き方に憧れるのですが、その土台には、前述したように、まわりに見守られていたことがあるんじゃないかと思います。

 

やさしい視線ばかりではありません。

すねを掻くお父さんは少しこわいですし、煮しめの作り方を娘に仕込むお母さんはクールです。

そのようにして、ラストで「仕事につかなくてはなりません」と本の登場人物たちに別れを告げる実地子は、地についた実のように、しっかりと根を張っていくことを予感させます。

 

その上で、ですが、実地子はやっぱり、るきさんみたいになるんじゃないかなぁと思いました。

幻を見るほど強い読書体験をした人ですから、自立しながらふらっと気ままに旅にでるようなそんな人になっていくような気がしました。

どちらも気持ちよく読める作品なので、ぜひ読んでみてください。

 

 

黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

黄色い本 (KCデラックス アフタヌーン)

 
るきさん (ちくま文庫)

るきさん (ちくま文庫)

 

 

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