サミュエル・ベケットの現代性について考えてみる
サミュエル・ベケットには、「ある」と「ない」の運動しかない。
同時代の同じアイルランド人作家のジェイムズ・ジョイスの複雑さに比べたら、ある意味シンプルですらある。
そのシンプルさゆえに、芝居を見る者を驚かせ、やがて胸を打つ。
「ロッカバイ」のVTRを見たとき、これはいったい何だろうと思った。
揺り椅子に座った老女が、前後に揺れながら何か意味不明な歌を歌うだけ。
これを芝居ですと見せられた。
エンタメのかけらもない。
あるいは長編の戯曲「ゴドーを待ちながら」の筋書きは、一言でいえばゴドーさんを待つだけの話だ。
ウラディミールとエストラゴンのふたりが掛け合い漫才のようなことをするが、たいしておもしろくない。
いや、ウラディミールといえば、ナボコフという言葉遊びの得意な作家を思い出すし、ゴドーさんは綴りがGodotだから、Godとの関係は疑いようがない。
だから分かる人には分かるという類いのものなのかもしれない。
僕は今頃になってナボコフのことを連想するぐらいだから、読んだときは何も分かっていなかった可能性が高い。
それでも分からないなりに、文献を調べたりして落としどころを探る。
人はそのようにして「解釈」に走るが、これが当たらずといえども遠からずなのだ。
J・M・クッツェー『世界文学論集』に「サミュエル・ベケットとスタイルの誘惑」というエッセーが入っている。
クッツェーは、ベケットの作品について「「Aそれゆえ非A」という精神の運動のスタイル化」と定式化している。
いわゆる排中律とよばれるものがある。
Aでありながら同時にAでないものであることはできないということだ。
揺り椅子が前後に揺れるようなものだ。
一コマ一コマが違う映画のフィルムを回すのにも似ている。
ベケット自身のことばを引用してみよう。
先の精神の運動のスタイル化は「表現すべきなにものもない、表現すべきなんの道具もない、表現すべきなんの足場もない、表現する力がない、表現しようという欲求がない、あるのはただ表現しなければならぬという強制だけ、といった表現」と説明される。
これを読むと、わたしたちはベケットからそれほど遠く離れたところにいないことを認めざるを得ない。
今日からプロ野球が始まった。
僕はプロ野球ファンだが、「ボールを投げて棒きれで叩く」だけの行為のどこがそんなに面白いのかという人の気持ちが分からなくもない。
もとよりそこに深い意味はない。
個人記録やプレーの優劣はプロ野球にとって本質的な要素だが、一般社会的には「戯れ」とか「遊び」にすぎない。
「戯れ」や「遊び」は社会にとって本質的なことではない。
本質的でないからといって、大切でないとは限らないのだが。
ベケットも同じだということを確認しよう。
精神の運動のスタイル化を志向しつつ、ベケットの戯曲はほとんどナンセンスな戯れが続く。
それはなぜだろう。
端的にいえば、目的がないからだ。
「ゴドーを待ちながら」でいえば、ゴドーさんは最後まで現れないし、そもそもゴドーなる人物が本当にいるのかどうかも不明だ。
あるのは、反復するやりとりだけだ。
わたしたちの社会は、見方によればそれほど発達していない。
今日、僕の住む街からTSUTAYAがなくなったことを知った。
あれらの大量生産品と流通システムは、僕にはギルド的な手工業社会と工業社会の影響を深く留めているように思われる。
僕の器量で到底受けきれるものではない。
人間が出来ていないからだ。
なぜ、いまさらベケットを持ち出したかといえば、いまだアクチュアリティを失っていないと思うからだ。
なぜか知らぬが競争にさらされ、どこに行くのかよく分からない。
それは共産主義的でないという意味で、資本主義的なやり方なのだと思う。
そしてベケットのことばを借りれば、それは「強制」なのだ。
なんのために?
それは分からぬ。
時々だったらベケットもいいかもしれない。
健闘を祈る。