ことばと肉・・羽海野チカ『ハチミツとクローバー』

今年の夏はいろんな意味で暑かった。

メディアが連日リオ・オリンピックで賑わっていたし、個人的には甲子園大会も連日テレビで観戦した。

そして例年になく地元鳥取市の気候が暑かった。

甲子園とオリンピックがほとんど同時に終わって、夏の暑さが引きかけると、僕の部屋のクーラーも故障した。

なんだか挨拶の抜けた暑中お見舞いみたいになってしまったが、僕はちっとも元気じゃなかった。

 

あまりの暑さで、長い間、考えが焦点を結ばなかった。

本もマンガも読めないし、音楽もただ鳴っている音にすぎなかった。

7年間、地中に身を潜める蝉の幼虫みたいに、ただただSNSやネット記事を読んで、雫のようにこぼれてくる情報を養分にした。

 

自分が暗い土の中の穴蔵に住んでいたのだと気づくのは、その穴蔵から飛び立ったあとだ。

ネットでシェアされる貧困のニュースを読んで、人間にはことばと肉が必要なのだと思った。

昔からある哲学の心身問題と関係あるのかよくわからないけど、同じようなものかもしれない。

 

肉が必要なのは言うまでもないだろう。

体が弱りはじめると、いかに自分が恵まれた体だったかに気づく。

この辺りは、哲学をミネルヴァのフクロウに例えたヘーゲルのように、黄昏を迎えるころ自分の身体をめぐる思索が始まる。

もっとも、ヘーゲルの観察とは裏腹に、フクロウは食べることと休むことしか考えていないらしいけど・・・

 

一方でことばの世界も人間には必要だ。

ことばの世界といっても厳密に定義することはできないけれど、心といったら近いだろうか。

心が沈んでいるとき、ことばも沈んでいる。

コップの底に沈殿したオレンジジュースの果肉のように。

 

夏の間、沈みがちだった僕が立ち直るきっかけになったのは、フィクションだった。

羽海野チカさんの『ハチミツとクローバー』第4巻の第24話を読んだとき、しばらくぼーっとしたあと、さめざめと泣いた。

真山に恋した山田あゆみのお話だ。

 

なんでも、植物は一度茎が折れると添木とかをしても元に戻らないから、折れたところから先をとってしまうのがいいらしい。

山田あゆみは真山に一度フラれているが、花火大会に真山らと出かける。

真山が山田あゆみに浴衣がきれいだと声をかける。

それだけの話なのだけど、僕の心はころころかき回された。

一つのことを思い続けることは、なんと切ないことなのだろう。

 

なんのことはない、『ハチミツとクローバー』の中の植物と山田あゆみの話を自分に重ねたにすぎない。

作家の意図にしばらく気がつかないぐらいぼんやりした僕ならではの話かもしれない。

ことばの世界はフィクションである。

どんな意味を与えるか、それは目に触れた人の数だけあるといってもいい。

たまたまその日が鳥取の花火大会だったことを思いだし、窓から空を見上げると、夏の夕暮れが広がっていた。

 

 

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