ツイッター的世界観とは、持ちつ持たれつの非対称関係である
昔、ツイッターの使い方で悩む人がいた。
「なんかね、ツイッター見てると、あっという間に日が暮れて、一日終わってることがあるんすよね」と彼は言った。
ぼくは同意した。
ツイッターとは、リアルな現実世界をそのまま反映したものではないか、といった様々な意見が、2012年頃までだったろうか、いろんな場で交わされていた。
最近でこそ、そういうツイッターとは何かみたいな意見をあまり見かけなくなったが、それがツイッターの勢いが下火になったからなのか、日常に定着してしまったからなのか、よくわからない。
でも僕は、ツイッターとはいったいなんなのか、どうやって使うのか、そういうツイッターの謎について考え続けざるをえなかった。
バッサリやめたことは何度もある。
でもその度にアカウントを作り直したり、削除したアカウントを復活させたりして、結局いまでもツイッターをやっている。
僕はその問いに対し、「自分の出し方、表現に気をつけろ」と自分に言い聞かせるようになった。
他人にとっては、出されたものがすべて、それがあんたの姿、だからである。
無論、それに尾ひれがつくことがあるわけだが、そこは他人の領域であり、自分は関知できない。
そう思うようにしている。
朝寝、朝酒、朝湯が大好きな小原庄助さんのことだ。
まず他人から軽蔑される可能性が高い。
自分は否定されるだろう。
だけど、小原庄助は、本当のぼく自身とは違うのになぁ、という思いがきっと拭えないだろう。
なんというか、割り切れない思いを抱くことになる。
しかし、やはり自分が出したこと、表現したことが全てなのだ。
この地点に帰ってくれば、自分って他人にはそんなふうに見えているんだ、という他人の目に気づくことができる。
自分のことは、自分だけでは十全に知り得ない。
他人の目を、間接的に、想像的に自分の中に取り込むことで、個としての自分は、社会生活を送れる程度に、一応の完成をみる。
簡単に言えば、客観性を持つということだ。
ツイッターをやっていると、つぶやく自分と、つぶやきを見られている自分の両方を意識する。
そのような持ちつ持たれつを、ひっくり返すとこうなる。
あなたにとって、ぼくはあなたを支える他人の一人なのです。
想像する限りにおいて。
自分は、出したこと、表現したことが全て。
他人には、それに想像力の羽根がつく。
自分を出発点にして、自分と他人が非対称関係であり、ぼくはあなたのことを想像することができます、とさえ言えるのである。
なんだかすごい話になってしまった・・・